言語による時間生成
時を作る
浅原正幸 国立国語研究所コーパス開発センター 准教授
小林一郎 お茶の水女子大学基幹研究院 教授
時間はわたしたちのこころにどのようにして生まれ、どのように在るのか。言語にはその具体的な現れを見ることができる。本計画班においては、言語学、工学、哲学の研究者が一丸となり、事象間の時間的順序関係を捉える人工神経回路網の構築に取り組む。言語表現の時間的意味(具体的には、事象の時間順序)を的確に捉えることができる人工神経回路網の構築は、その中間層に表出される内部状態により言語表現の時間的意味がどのように脳内で処理されるかを推測する作業モデルとして有用な示唆を与える。この人工神経回路網の構築にかかる作業として、時間関係を捉えた大量コーパスの構築(浅原)、時間表現の言語分析(嶋田)、人工神経回路網の構築(小林)、時間表現の哲学的分析(青山)を行う。各分野における基礎的な研究(哲学:時間分岐的な可能性表象、言語学:時を表す言語表現の類型と個別言語の詳細な調査、工学:言語に現れる時間的概念の脳内状態表現および脳内における時間的順序関係の認識における処理過程の解明)は本班の研究を支えるものとして位置づけられる。このようにして構築した人工神経回路を他班に提供し、有機的な研究をうみだす。B01, C01, E01 班と共同して、中間層の表現を脳活動データと対照して対応関係を明らかにすることにより、ヒトが脳内に抱く時間意識の実体解明に向けた取組みを大きく進展させる。また、D01 班と共同して子供の発語データから人工神経回路を構築して、時間意識の発達に伴う脳の内部状態の変化を推定する。
時の流れの神経基盤
時が流れる
貴島晴彦 大阪大学大学院医学系研究科 教授
西本伸志 情報通信研究機構脳情報通信融合研究センター 主任研究員
先行領域「こころの時間学」では、学際研究の成果として大脳皮質内側面に「未来―現在―過去」の時間地図を描き出すことに成功した。本研究では、「現在」近傍を表現する楔前部周辺に注目して、「未来―現在-過去」の時間の流れの感覚を支える神経基盤の解明に取り組む。研究に当たっては、ヒトとサルの神経活動を計測するだけでなく、A01「作る」班から時間順序を判断する人工神経回路の提供を受けて、人工神経回路と脳の活動を対応付ける。これらの解析を通じて、「過去―現在―未来」の区別と流れの神経基盤を階層構造のレベルからニューロン活動のレベルまで理解する。さらに、楔前部周辺の「時間の流れ」の状態が、「楽しい時間は速く過ぎる」などの日常の時間の流れの感覚と直結していると予想して、この予想を検証する。楔前部は発症に先行してアミロイドが蓄積する領域としても知られているので、楔前部の時間意識の神経基盤の解明は初期認知症の病態解明にも大きく寄与するだろう(E01「失う」班との連携)。
知覚や行動に伴う心的時間の脳内機構とその操作
時を刻む
寺尾安生 杏林大学大学院医学研究科 教授
天野 薫 情報通信研究機構脳情報通信融合研究センター 主任研究員
日々の生活は時間情報に支えられている。意識するかしないかに関わらず、私たちは一日のうちに何度も時間を計り、タイミングを予測し、リズムに引き込まれている。しかしこうした能力は脳の損傷によって大きく変容し、加齢によって少しずつ失われる。本計画班では、知覚と行動のオンライン制御に関わる時間情報の脳内機構をとくに周期現象や学習機構に着目して調べる。具体的には、①リズム知覚と同期運動、②計時と時間生成、の2つの観点から時間情報処理の脳内機構を探究するとともに、その操作法の開発と神経疾患における病態生理の理解を目指す。この目的のために、先行する新学術領域「こころの時間学」(H29年度終了)で様々な心理物理実験を通して視知覚における時間情報処理のメカニズムを明らかにしてきた村上と、サルを用いた生理学実験によって心的時間の神経表象を探ってきた田中の研究を有機的に結び付け、これに臨床神経学(寺尾)と脳機能計測・操作法(天野)の専門家を加えることで分野融合的な共同研究体制を構築する。
リズム知覚や計時の脳内機構については不明な点が多い。本研究チームでは、有用なあらゆる研究手法を動員してその解明に取り組む。ただ神経表象を追うだけではなく、時間知覚や他の計画班で扱われる様々な時間認識の生成基盤と考えられるネットワークの状態を周期的な外乱やニューロフィードバックによって操作することを試みる。また、実験で得られた結果をA01班の構築する人工神経回路と対応づけることにより、時間情報処理の包括的な理解を目指す。これらの研究を通して、「時を生みだすこころの仕組み」の解明に貢献する。
時間の獲得の個体発生と系統発生
時を獲得する
こころが時間を生み出すのはなぜ、どのような仕組みによるのか?本計画では、ヒトにおける時間の理解の発達過程を探る縦断的研究ならびに横断的研究、ヒトに最も近縁な類人猿であるチンパンジーとボノボや、ヒトと遠い関係にあるイヌやウマを対象にした比較認知科学的な実験研究、および発達研究と種間比較研究を通底した理解を目指すための数理モデルの検証を統合的に展開し、時間の生成の個体発生、系統発生、究極要因に迫る。本計画班の中において、比較行動学、発達心理学、数理神経科学といった異なる研究分野を背景にもつ研究者が共同して異分野融合的な研究を展開する。また、他の計画研究班との連携において、言語空間における時間ベクトルの発達変化の検証、時間と社会性との関連の研究、行動レベルで見られる周期現象の解明、加齢による変化と疾患による変化の比較などをおこなう。予想される結果と意義としては、(1)言語コーパスの研究によって言語空間の時間ベクトルの発達加齢変化がわかる、(2)心的時間旅行の比較研究によって過去の記憶を将来の予想につなげる現象が社会性の領域に顕著に見られるのか否かがわかる、(3)そして、その獲得される言語空間の時間ベクトルや、記憶にもとづいた予期的行動に関する時間関係と、学習行動の理論を結びつける独創的な試みにより、モダリティや種の違いを越えたメタレベルの比較・検証を実行できる。
時間処理およびその情動的価値の生成と崩壊
時を失う
河村 満 昭和大学医学部 客員教授
脳が感知する「こころの時間」は物理的時間とは異なり、注意や動機や文脈などの内部状態によって自在に伸縮し、分節化する。こうした心理的時間は、しばしば不適切に変容し、ときに疾患にも深く関与する。こころの時間がどのように崩壊し、疾患となるのかを神経科学(池谷)、認知神経科学(梅田)と臨床神経心理学(河村)の包括的なチーム体制によって解明する。先行領域である『こころの時間学 ―現在・過去・未来の起源を求めて』では、当該研究代表者は計画班「記憶による時間創成メカニズムの探索」を担当し、当該研究の発案元となった「こころの時間」の脳地図の同定などの重要な成果を挙げた。とりわけ、楔前部や脳梁膨大後部、前頭葉内側部といった大脳皮質正中線構造領域やパペッツ回路に代表される記憶関連ネットワーク、さらには眼窩前頭皮質や扁桃体などの情動・評価関連ネットワークに着目し、脳時間機能の正常と病態の輪郭を、ヒト臨床試験および動物実験を通じてあぶり出す。「楽しい時間はなぜ速く過ぎるのか」「退屈な時間はなぜ苦痛なのか」などの誰もが日常抱く疑問は科学的な取り扱いが困難だったが、こうした問いにも、認知神経科学的に反証可能なパラダイムを構築し、刺激や阻害などの緻密な神経回路の操作を通じて、適切な時間判断や時間感覚が変容したり喪失したりするプロセスを観察する。以上で得られた脳活動のデータを人工神経回路(機械学習)で判別させることで時間情報処理の神経実体を抽出し、科学的扱いが困難な主観的時間感覚や情動的価値に迫る。当該研究は、ヒトの本質や尊厳に触れる重要な探求であり、認知症や依存症などの不適切な脳の状態のみならず、「我慢できない」「慌てやすい」「うっかり忘れが多い」「先送りしがち」など、広く一般の社会問題にも直結する。